5月20日に全国公開の映画「大河への道」。
日本地図を完成させたと言われる伊能忠敬の没後200年を記念した歴史ドキュメンタリーです。

ところが、⽇本地図を初めて完成させたのは伊能忠敬ではなかったというのをご存知ですか?

伊能忠敬の日本地図完成よりおよそ半世紀前に日本地図を作った男がいたのです。
その男の名は長久保赤水(ながくぼ・せきすい)。

一体どんな男だったのか?その人物像に迫ってみました。

まずは長久保赤水について紹介する前に、伊能忠敬について簡単に紹介したいと思います。

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伊能忠敬(いのうただたか)とは?

伊能忠敬は延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村、現在の千葉県九十九里町で生まれました。
17歳で伊能家当主となり、名主として村に貢献しました。

「地球の大きさを知りたかった」という伊能忠敬は55歳から地図作りを始め、17年かけて日本全国を測量。
地球一周分の距離を歩き、1821年に日本初の日本地図を完成させたと言われています。

映画「大河への道」では、伊能忠敬は実は地図完成の3年前に亡くなっていたという事実を基に、⽇本初の全国地図誕生秘話を描いていますが、その半世紀も前に日本地図を作っていたのが、長久保赤水(ながくぼ・せきすい)だったのです。

長久保赤水(ながくぼ・せきすい)とは?

長久保赤水は享保2年(1717年)11月6日生まれ。
伊能より28歳年上です。

長久保赤水の肖像画は茨城県立図書館デジタルライブラリーでご覧ください。

長久保は常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。
農民出身で幼少期に両親を亡くした苦労人でしたが、勉学に励み、地理学者、儒学者となりました。

長久保は各地の地理に関する情報を集め、日本で初めて地図を作りました。

長久保の作った地図は、「改正日本輿地路程全図」として1779年に出版され、通称「赤水図」としてベストセラーとなりました。

長久保は伊能のように日本全国を歩き回って実測したわけではありませんが、その精度は非常に高く、現代の日本列島の地図と比べても遜色ないできばえでした。

伊能忠敬の測量による正確な地図が完成したのは、赤水の地図が発刊されてから42年後の1821年でした。

実は伊能の地図は「門外不出」とされたため、ごく一部の人しか見ることはできませんでした。
そのため、伊能の地図が完成した後も一般に普及していた地図は、この「赤水図」でした。

幕末期には、吉田松陰らの要人がこの地図をこぞって購入。
値段は今の貨幣価値にして4000~5000円程度で買え、明治維新にかけての日本では必需品だったと言われています。

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長久保赤水と伊能忠敬の地図の違い

1821年に完成した伊能忠敬の地図は、伊能自らが実際に各地を歩き歩幅で測量しました。
そのため、日本列島の海岸線などの精度が高いのが特徴です。

一方、長久保赤水は実測地図ではありませんでしたが、自ら収集した地名などの情報を地図に盛り込まれているため、内陸の情報が豊富なのが特徴です。

長久保赤水と伊能忠敬のまとめ

ということで、伊能忠敬の半世紀前に日本地図を作った長久保赤水について記事にしてみました。

余談ですが、「赤水図」には、韓国と領有権を争う竹島も松島という呼称で記載されています。

長久保の情報収集能力の高さには驚きますね。

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