「蛍の光」は、日本では卒業式やお店の閉店時間などの「別れ」や「終わり」を象徴する曲として親しまれています。
そのため、年の瀬である大晦日に歌う習慣があります。
しかし、イギリスやアメリカでは、新年のカウントダウンの後に歌われることが多く、楽しさや祝賀の気持ちを表す曲として捉えられています。
では、なぜ日本では「蛍の光」が「別れ」や「終わり」の曲として定着したのでしょうか。
「蛍の光」の原曲と歌詞の意味
「蛍の光」の原曲は、スコットランドの民謡「Auld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)」です。
日本語に訳すと「久しき昔」や「懐かしいあのころ」という意味になります。
歌詞は「懐かしい昔を偲んで、旧友と酒を楽しむ」という内容です。
この曲は、1788年にスコットランドの国民的詩人「ロバート・バーンズ」が、古くから伝わるスコットランドの伝承歌をもとに書きました。
歌詞の内容は、旧友と再会し昔を偲(しの)びながら杯を上げるという内容です。
この曲は、スコットランドでは準国歌という位置づけで、国民的な歌として親しまれています。
結婚式や新年など節目の場面で歌われ、手を繋いで輪になって歌うのが伝統、友情や思い出を大切にするスコットランドの文化や精神を表しています。
「蛍の光」が日本に伝わった経緯と歌詞の変化
「Auld Lang Syne」はスコットランドから欧米へ広まり、日本には明治時代にアメリカから伝わったとされています。
明治14年(1881年)に「蛍の光」として「小学唱歌集初編」で発表されました。
作詞者は「稲垣千穎(いながきちかい・1845年~1913年、国学者、歌人、教育者)」です。
原曲の「友情の杯を飲み干そう」という歌詞が教育上よくないということで、曲はそのままに、稲垣千穎が新しく作詞し、タイトルも「蛍の光」に変更されました。
歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」は、「蛍雪の功(けいせつのこう)」ということわざが由来です。
「蛍雪の功」とは、苦労して勉強に励むことという意味で、中国の以下の故事が由来です。
中国の晋(しん)の時代(265年~420年)に、官史(かんし・役人のこと)を志望する「車胤(しゃいん)」と「孫康(そんこう)」という青年がいました。
二人はともに家が貧しく、夜に勉強をするための灯りの油を買うこともできませんでした。
車胤は、夏の夜に蛍を捕まえて、蛍の光で本を読んで勉強をしました。
孫康は、冬の夜に窓辺に雪を積み上げ、雪の明かりで本を読んで勉強をしました。
そして二人の努力は報われ、高級官史になったそうです。
「蛍の光」が「別れ」や「終わり」の曲として定着した理由
では、なぜ日本では「蛍の光」が「別れ」や「終わり」の曲として定着したのでしょうか。
その背景には、昭和24年(1949年)に公開された映画「哀愁」があります。
この映画は、大尉と踊り子の悲恋を描いた作品で、その中で「蛍の光」に非常に似た「別れのワルツ」という曲が使用されました。
この曲は、四拍子の「蛍の光」を三拍子に編曲したものでしたが、映画と共に多くの人々に深い印象を与えました。
映画の中で、ロバート・バーンズという場所で閉店時間になると「別れのワルツ」が流れ、大尉と踊り子は戦争のために別れることになり、美しいダンスを踊ります。
明かりがひとつずつ消され、暗くなったダンスホールでのこのシーンは映画史に名を刻みました。
この曲は、「別れ」の瞬間や終了の合図として、お店の閉店時や閉館時間、フェリーの出港時などに広く使用されました。
そして、「別れ」や「終わり」のイメージは、年の終わりを感じさせる大晦日にふさわしいということで、大晦日に歌われるようになったのです。
実際には、我々が「蛍の光」として知っている曲は、「別れのワルツ」なのです。
まとめ
以上、「蛍の光」が日本では大晦日、海外では新年に歌う理由を解説しました。
「蛍の光」は海外ではもともと祝賀の時に歌う曲だったんですね。
日本で定着したのは別れの映画が理由だったというのは知らなかった人は多いのではないでしょうか?